今日の一語り

しがない勤め人、大津 和行(かず)、のキーボードから紡ぎ出される日々語り

中年以降のひがみは容認されたってよかろう

9月6日の一語りの再掲です。

若くてポテンシャルがあるうちはひがんでいると、もっと頑張ればいいじゃないかという叱咤激励はプラスかもしれない。

しかして、順調でないまま中年になりリカバリーなんて考えられないよという年代では僻みは容認されてもいいと思う。

かくいう私はまごうかたなきひがみ屋である。

それは君のひがみだよと断定されへこんだり憤ったりしてきた。
ひがみは悪いこと、そんな定義を容認してしまっていたから。

しかして、すでに40代半ば、人生はうまくいっていない。妻こそいるがそれだけが唯一の救いで他いいことは全然ない。子なしであるし。
子どもなんて絶対的に、生理学的にリカバリー不可能だ。

そんな自分に僻みがないなんて言ったら完全な嘘だ。
僻みだけの人間と言っても過言ではないのだ。

嘘をついて生きるのは楽じゃない。だったら僻みを容認したいと思う。
それは君の僻みだよ。それは持っている人間の言える言葉だから。持っていない私はええ、僻んでいますけどと思っていればいいんだよな。

もちろん僻みを聞かされる側は気持ち良いことは決してないから、マナーとして口に出さないことは礼儀として必要だとも思う。
そこで失敗したことがある。相手に甘えすぎて僻みを表出し過ぎた時が。
ひがんでもいいが、出すのは慎重にという整理がついていなかった頃だ。
後悔先に立たずですが。

これからは僻みを容認しつつ出し方には気をつけようと思った。

ここで書くのもどうかなという議論はあろうが、読者は読まない自由もあるので、よかろう。僻みが多い人間です私は。