今日の一語り

しがない勤め人、大津 和行(かず)、のキーボードから紡ぎ出される日々語り

なるほど、原発という原子力の平和利用も平和の観点から危惧を持っていいのだろう

 昨日の長崎原爆の日被爆者代表の深堀好敏さんの平和への誓いを聞いていた。

「核と人類、共存できない」=原発再稼働に危機感−平和への誓い・長崎原爆忌時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2017080900521&g=soc

 うん?と思ったのが、原発という原子力の平和利用に関しても危機感を持っていたことだ。

 しかし、すぐに納得できた。

 先日、新潟県を旅してきた時、たまたまではあるが、柏崎刈羽原発を見た。
 すごかった。
 なにがかというと、塀の上に鉄条網が張り巡らされていて・・・なんじゃこりゃ。軍の施設か?と思ったくらい。
 また、入口では車が渋滞していた。厳重な検問がなされているのであろう。

 発電所だからいいだろう、平和利用だからいいだろう。

 そういうロジックは通じないのではなかろうか。

 テロの標的にされたら困るから・・・厳重な検問にベルリンの壁さながらの鉄条網。これは軍を想起させるものであるし、そこまでしないと守れないものなら、それは人の手に余るということだろう。

 原子力・・・この巨大なエネルギーは人の手に余る。手に余るからそんな警備も必要だったりする。

 原発の危機を身近に感じざるを得ない新潟県の人にその電力はそんなには行かないのだろう。長大巨大な高圧線は東京の方面に向かっているように見えた。

 平和という観点から原発を見たら、そのものものしさに、これは決して平和的とは言えないだろうという雰囲気もあるし、手に余る巨大エネルギーは持たない方が危険は少ないだろう。

 平和利用施設たる原発をこの目で見て、軍事施設と見まがうようなあの物々しさを見たら異様としか言えないし、都会の人の電力の使用(浪費?)を支えるために地方が犠牲になる構造って不自然だ。

 だから、平和利用という言葉にだまされずに原発とかも見る必要があるんじゃないかなって・・・実際に柏崎刈羽原発を見たことから感じた次第。