今日の午前11時2分、黙祷をした。
1945年のこの日この時間、長崎に原爆投下されたのだ。
数年前、長崎に行った。行ったことがなかったからだ。その時の旅行記は次を参照されたい。
この旅行記でも語ったが、平和について考えざるを得なかった。
そして、忘れ得ぬところにも行った。長崎の原爆投下後、自ら瀕死の重傷を負いながらも被災者救済に尽力し、その後寝たきりになってからは原爆の被害を執筆を通して世に知らしめることに尽力した永井博士が住まっていた如古堂である。
永井博士に関しては次のサイトを参照されたい。
その展示を見て、今でも鮮明に覚えていることがある。
戦時中、終戦間近の究極的な物資不足でレントゲンを投影するレントゲン板がない状況で、それでも、目で透視すれば結核等の病巣が分かるという極限状況において、永井博士は検診での透視を続けたのだ。もちろん、自身を放射線の暴露から防ぐ手だてがない。けれども、見れば分かる病巣をみすみす逃すことができないという思いから、自らの放射線被曝をかえりみず、立ち続けたのだ。原爆での被爆前にすでに余命3年の診断を下される白血病におかされていたのだ。
ものすごい衝撃を受けたことであった。
そして、戦争というものがどんなにか憎むべきことか、これほど実感したことはなかったくらいの思いであったのだ。
戦争が招きこんだ物資不足(原料国でない日本が戦争を起こせばこうなることは必定であったのだ・・・)によるレントゲン板不足がなければ、永井博士はこんなにも苦悩の決断を迫られなかったであろう。
なおかつ、戦争がなければ原爆が落ちることはなかったのだ。
どんな大義名分があろうとも、人の殺し合いたる戦争は許されてはいけない。人殺しの手段たる軍隊は持ってはいけない。
長崎の原爆の日の今日、その思いを新たにした。