さて、先日の旅で、田中正造の生涯を学び足尾鉱毒事件を学んだ後、翌日、足尾銅山に向かった。今は操業していないが、観光として足尾銅山の跡に入れるとのことだったから。
それにしても遠かった。まぁ、それもそのはず・・・群馬県に宿を取り、一泊した後に向かったが、足尾銅山のある場所は栃木県日光市。栃木の銅山の汚染が遥か下流の館林あたりでの被害が大きかったこと・・・渡良瀬川を遡上した旅の長さに、その鉱毒公害の深刻さを体感した次第。
トロッコ列車に乗って、坑道に入っていくスタイルで、なかなかの臨場感であり、また、坑道だけに蒸し暑い昨今でも、とても涼しい。夏向きの場所ではあろうが。
さて、足尾銅山は1610年に2名の農民によって発見されて以来、江戸幕府の直轄で鉱山開発が進められ、明治時代に飛躍的に生産を増加し、昭和になると、公害を出さない仕組みを取り入れながら閉山に至ったという歴史が学べた。
事業者側からの説明だから、負の部分の鉱毒事件についてはあまり触れられていなかったが、それはやむないところなのだろう。
西欧に追いつき追い越せという殖産興業、また、戦争が続いた明治の世において、公害を出しながらも操業を続けざるを得なかった銅山という存在を肌で感じて、複雑な思いにもなった次第。
実際に行ってみて、この山深きところに・・・という体感も伴いながらの勉強は本当によき大人の社会科見学になったと思う。