今日の一語り

しがない勤め人、大津 和行(かず)、のキーボードから紡ぎ出される日々語り

格差社会を肌で感じた瞬間

 ある高層マンション群のそばを通った。
 比較的新しくできたところらしく、周りの道もきれいに整備されていて・・・ほぉーと言いながら歩きつつ。
 敷地内には立ち入りできないようになっている。最近はそんな場所も多いかなぁ・・・などと思いながらも、やはり東京都の集合住宅でで幼少時を過ごした私にとっては・・・その排他性がなんか違和感も感じつつ、そう、私が生まれた頃の都市部の集合住宅ではみんな自由に出入りができて・・・子どもが遊んでいたものだ。
 見ると、その高層マンションの一階にはロビーがあって、豪華なソファも見えたり。そこには子供が遊んでいるのが見えたりして・・・うーん、最近の子はこのような閉鎖空間で遊ぶのかねぇと思いつつもややうらやましいなとも。

 歩いていくと、なんか非常におしゃれなカフェらしきものがある。すいていて、快適そうな空間だ。店員もしっかりした制服を着ていて・・・しかし、看板も出ずに目立たずに、はやりのシアトル系カフェではない。そもそも、スターバックスなどがありそうな便のいい場所じゃない住宅街の中だ・・・なんだろ?いいところだったら入ってみようか、と見てみると・・・。
 そのマンション群の居住者専用の喫茶スペースとのこと。それ以外の方は立ち入り禁止とのこと。

 なるほど、そういうことだったのか・・・

 妻と一緒に話しながら・・・やはり妻も違和感を感じていたようだ。
 二人で感じたのだ。そこまでするのかぁ・・・と。

 いわゆる格差社会というものを肌で実感した瞬間。
 正直、格差を感じるのは好きではない。

 自分で稼いだお金なのだから、それを使って何が悪い・・・その論理は資本主義的自由主義経済社会では前提となってしかるべきかもしれない。がんばれば、お金持ちになっていい暮らしができるかもしれない・・・この期待感こそが人々ががんばる動機付けになるのは確かだ。その意味での経済的な差はいたしかたないかもしれない。だから、実質的平等が、人々のモチベーションのために犠牲になるのはしょうがないのかなとは思う。なんか、感情的にはいやだけどね。
 実質的平等を目指した共産主義が、ソ連の崩壊に象徴されるように、人々のモチベーションを引き出せずに失敗したことは周知の事実だからだ。

 しかしね・・実質的平等は損なわれても、機会の平等はおおむね保証されているのが望ましい社会と思うんだけどね。スタートラインはおおむね一緒。あとはがんばり次第と言う感じにね。ここまで格差社会ということが言われる前までは、そう、私が集合住宅で生まれ育った頃は・・・それなりにおおむねスタートラインは一緒と感じていたんだ(まぁ、ジニ係数が1になったことがない日本社会、スタートラインがまったく一緒というわけにはいかなかったんだろうが・・・)。だから、それなりにがんばろうという気にもなたつしなんとか大学まで行けたと思うんだよね。

 でもさ・・・こういうプライベートカフェまで持つハイソサイアティとしての閉鎖空間を見てしまうと・・・なるほど、雑誌などでは東大生の親は7割方管理職の子弟子女という記事があったように思うが、そもそも、スタートラインが違うよなと。

 たとえば私に子ができたと言っても・・・決して、このようなハイソな方々の子弟子女と肩を張れるほどの教育投資はできないだろう・・・

 なんか、そんな感じで格差社会を身近に感じてしまった感じで・・・うーん、と。

 2006/1/25一語り「ヒルズに思う」で語った・・・六本木ヒルズに感じた違和感・・・それも格差社会を感じてしまったからなのかもしれない。

 まぁ、機会の平等の上である程度がんばってきた私としては、あまりこうはじめから差を見せつけられる感じの建物はどうなのかなぁと思ってしまった。もちろん防犯上必要と言われればその方がベターなのは自明だろうが。

 ま、格差社会実感記というわけで。