あぁ、これでよかったのかなぁ・・ほかの道があったのではないか・・・・生きているとそんなことを思うことの連続だろう。これは個人差はあるが多かれ少なかれ誰しもそういう逡巡は絶えず抱えているはずだ。
そして、ある時思う・・どうして、今の自分になったのだろう。そして、現状に満足している人ってそんなにいないだろうから、男性なら仕事帰りの居酒屋とかで、女性なら気の合う友人とのランチの場で「どうしてこんなになっちゃたんだろう」とつぶやいているかもしれない。
現在の自分がどうしてこうなっているのかって、実は明快な答えがある。
今までの人生の瞬間瞬間での自分の判断の積み重ねが今の自分の姿だ。
受験でちょっと無理目だけどいい高校のA校を受けようか、安全圏のB校を受けようかという判断だってある。今日のお昼は太るかもしれないけどビックマックにしようか、それとも、健康を考えてサバみそ煮定食にしようかという判断だってある。
そんなその瞬間瞬間の判断の積み重ねの結果が今の自分だ。それ以上でもそれ以下でもないのだ。失敗の判断もあったろう、成功の判断もあったろう、それを含めて総合した姿が現状の自分ということは自明とも言えないだろうか。直感的に分かって頂けよう。
この考え方は、数学の微分積分の考え方にとてもフィットするので、数学の得意とするシンプルな記法で記述すると、次のような一式で表されよう。
まぁ、1972年生まれの私の場合は、次のようになる。
今の判断がよかったのかわるかったのか・・・それはその時は分からないかもしれない。でも、それは如実に結果として表れてくるものだ。そう、その瞬間瞬間の判断の積分として。それは容赦のないものだ。
数学的な表現だけではなく、文学的な表現として、重松清さんの小説「流星ワゴン」の一節を引きたい。
「分かれ道は、たくさんあるんです。でも、そのときはなにも気づかない。みんな、そうですよね。気づかないまま、結果だけが、不意に目の前に突きつけられるんです」(流星ワゴン 講談社 重松清 p.100より登場人物の発言の引用)
まさに、上記の数式と同じことをいっているのである。
判断した瞬間は分からない・・・でも、積分としての結果は容赦なく訪れる。
だから、私は思うのだ。今の判断が自分にとってよかったかどうかわからない・・・でも思い悩むことはない、結果を甘受する覚悟さえ決めておけば。
先人はこの覚悟を決めるためにいい言葉を残している。
覆水盆に返らず。
こぼれたミルクに泣くな(It is no use crying over spilt milk.)
治らないことはがまんするしかない(What cannot be cured , must be endured.)
実は今職場の私のパソコンのスクリーンセーバーに流している言葉はこの3つだが、結局そうやって覚悟を決めていくことが必要なんじゃないかな・・・今の自分を嘆くのではなくね。そんな風に思っているんだ♪