今日の一語り

しがない勤め人、大津 和行(かず)、のキーボードから紡ぎ出される日々語り

仕事納めの日が何となく嫌な理由

 さて、今日は仕事納めだった。カレンダー通りの休みである職場であれば今日で終わりという方も多かろう。
 伝統的な日本の労働環境であれば、仕事納めの日はもう仕事もそこそこに挨拶まわりなどをすることが多かったと思う。
 不況が遷延し労働環境もう厳しくなってきて余裕がなくなってきたある今日ではあまりそういうこともないのかもしれないが、まだ、伝統的に挨拶回りをしたりするところも多かろう。
 なんか、この挨拶回りというのが・・・なんとなくいやだなぁとか。
 まぁ、昨今の情勢から大々的な挨拶回りはなくとも、職場の同僚からの挨拶があったりなかったり。それで自分への人望が見えるような気がしていやなわけだよね。
 でもさ、結局、職場で挨拶をするとかしないとかって、その裏にある権力の裏打ちだったりするわけだよね。職務階級によって、職務階級の高い人には挨拶をするとか、そこには人間的な感情を抜きにして、後ろに見えるものに挨拶をする面があるだろう。
 そのように挨拶されようがされまいが、どう思われているかは関係ないものではあろうが、なんか挨拶が多い人になると人望があるがごとく見えてしまう場にいるというのはあまり心地よくはない。
 例えば、どのように思われているかは分からないにしても、年賀状の数が多かったりするとなんか安心するだろう。また、ブロガーと言われる人たちも、アクセス数が高ければ安心するだろう。そこに質の問題はあまり考慮されていないにもかかわらず、なんか安心感があるのだろう。
 まぁ、私は年賀状はあまりもらわないし、昔はともあれ、今はウェブ日記もホームページもそんなにアクセス数はない。しかして、多くはなけれどいい友だちは多いと思うし、この日記の読者の方もコメントをいただいたりすることを通じて暖かい方が多いと思うのだ。質の点でいえば非常に恵まれているとは思いながらも、量的指標としてはあまり出てこないのが残念だ。
 量的指標で挨拶数が多ければ安心できるということなのだろう。伝統的日本において仕事納めにおいて挨拶回りをし合うのも、そこに挨拶をし合えば安心感があるということに起因するんだと考える。
 日本という個人主義が伝統的に希薄な社会において、村八分という言葉もあるくらいで、集団帰属でどう思われるかを気にする社会においては挨拶回り的な環境があるのは理解ができるが・・・
 そのような、思惑が繰り広げられる仕事納めの日は、なんとなく、いやだなぁとか思いながら、このようなことを考えてみた。

 そう思う人も少なくないのだろうか、年の最後の日にお休みを取る人も結構いるような気がするが、同じような感覚なのかな。