今日の一語り

しがない勤め人、大津 和行(かず)、のキーボードから紡ぎ出される日々語り

食と生への執着と平和について


 私ももう30歳代中盤の年頃で、年相応に食が細くなってきていて、昔ほど食べることができないにもかかわらず、大盛り・デカ盛りネタには飛びついてしまう。


 かの人気番組TVチャンピオンでのデカ盛り王選手権の番組にも釘付けになってしまうし、さっきまでデカ盛りの店検索をしては「萌え〜」な感覚を持ってしまっていたわけだが。


 そんな風に、ご飯は大盛り、お代わり自由だと目を輝かす私を見て、以前友人が「あなたは本当に一生懸命生きているって感じだよね」という表現で私を評していたことを思い出す。


 その友人が言うには、食べるということは生の基本であり、それにそんなに一生懸命になっている私は、本当に一生懸命生きているんだと感じたということだ。


 なるほど・・・と思った。


 確かに、私は生へ執着していると思う。それは悪いことでは決してないと思う。一生懸命生きる・・なんとか生きる。そのためだけに今までやってきたようなものだ。生きてきた結果、妻とも出会えたわけだ。


 そして、私の生への執着は、同時に私の平和概念の基盤をなすものだと思う。


 実際、生への意識ゆえ、国のために死ぬのだという戦前の意識にはまるっきり賛同できないわけである。


 反対に現憲法への共感は深い。現憲法は、戦前の集団主義国家体制が国民を死地に追いやった反省ゆえに、個人の幸福追求という人権上当たり前のことを国家権力の侵害から守ることを宣言しているわけだから。


 しかし、最近はその憲法を変えようという国民投票法案を通過させてしまったし、また、特攻隊を美化してしまっている映画も上映され始めたようだ。


 ちょっと、どうなのかな・・・。


 現憲法が国民・市民の人権を踏みにじって死地に追いやった全体主義国家体制の戦前への反省に立っているものということを認識しているのだろうか。認識していれば、そうそう、変えようという発想が出てこようはずもないのではないだろうか。特攻隊で飛び立った若者たちは、戦前の全体主義国家体制によって死地に追いやられた犠牲者にほかならず、あたかも自ら死を選んだかのように思わせる映画の題名はどうなのだろうか。


 夕方、テレビを見ていた。ニュース番組の一環でデカ盛りの店を特集するようだ。その前後に、いろいろな局のニュースにて農林水産大臣が自殺したとの報も併せて放映されていた。生と死、対照的であった。


 デカ盛りの特集を見ながら私は生きていこうと思ったのだ。あそこにも行きたい、ここにもいつか行ってみよう。今日はちょっと風邪気味ではあったけれども、デカ盛りはそういう気力を沸き立たせてくれる。生きていなくては美味しいお店に食べに行くこともできないのだ。


 生きていくためには、平和でなくてはならない。平和を求めるのに現憲法以上のものがあろうか。戦後に、国民・市民を死地に追いやった全体主義国家体制の反省を一番よく感じていた戦後直後に作られた現憲法以上のものが。それを変えんとするのは、どうしても、生への志向とは思えない。


 食と生と平和・・・これらを守るために手に取るのは銃ではないと思うよ。