今日の一語り

しがない勤め人、大津 和行(かず)、のキーボードから紡ぎ出される日々語り

共感的理解を感じることが非常に困難な昨今

 勤め人をしていると、理不尽なこと多く、愚痴が絶対に出てくる。

 それを聞いてもらいたいと思わぬ人はウソであると思う。

 

 古来、日本では赤提灯での愚痴の言い合いというのは伝統的に行われてきた。昭和世代の私は就職したての頃、飲み屋で職場の愚痴を言い合う勤め人たちのうめきを聞き耳を立てずしても聞こえてきたものだ。

 

 赤提灯で会社帰りに酒の力を借りて愚痴を言い合う、それは、相手から共感的理解を得るため。単に話す以上に共感され、理解されたい。酒という緊張をゆるめるツールを使いながらでも。それがサラリーマンの聖地、東京は新橋であれだけ赤提灯が軒を連ねている理由であることは自明だ。

 

 しかして、昨今の若い人たちに愚痴を聞いて共感的理解を求めるのは至難の業だ。

 ゆとり教育かなにか、とにかく、個人主義的思考が強い昨今の若者にとって、他人の愚痴をどうして自分が聞かねばならないのかという意識が強いようだ。だから、赤提灯どころか飲み会だって行きたくない。それが本音だろうと思う。

 どうして上司でもないあなたの話を聞かなくてはならぬのか。そういうことだろう。

 

 ごもっとも。個人主義というきわめて欧米的な考え方では、それはごもっとも。

 

 では上司であれば聞くかというと、上司の方もおごるよとか言って盛大にお金を使いながら若い部下たちに自分の話をその立場を暗示的にでも使いながら聞いてもらう。若者もいやいや付き合う。

 

 そこに共感的理解はあろうか。否であろう。

 

 だって、高度に個人主義的なアメリカにしたって、共感的理解というのは欲するようで、エグゼクティブであればあるほど、専門の心理カウンセラーに通っていたりすると聞くから、やや、滑稽ではないか。カウンセラーへの支出はかなり高いものにつくはずだ。

 

 私は出世もしていなければ、大した権力もないところで、愚痴を聞いてくれる人は少ないゆえ、主に妻に聞いてもらったり、たまにはここで吐露したりするが、ここで吐露してもあまり反響がないゆえ、まぁ、そうだよな愚痴なんて誰も聞きたくないよなとか自嘲めいたり。

 

 ただ、同年代くらいのまだ、昔流の赤提灯コミュニケーションを知る友人・知人とたまに飲んだりする時に、共感的理解を得られたと思う時に、あまりにも稀でうれしくなりすぎるのか、どうも普段になく深酒になってご迷惑をおかけしてしまうことがあるくらいだ。本当に申し訳ないと思ってしまうが、それくらい共感的理解を得る機会というのは稀であるということでもある。

 

 でも、コロナ禍の今、赤提灯コミュニケーションもできなくなっている。

 

 そんな厳しき今、オンラインで、SNSとかで、メッセージのやりとりとかで、共感的理解を感じられるメッセージをいただけると本当にうれしい。

 

 今回そういうメッセージをいただけたのは本当にうれしかった。ありがとうございます。