年が明けて今年の元旦、1月1日に先ずしたことがホットケーキを焼いたこと。
無性に食べたくなったゆえ。
手動のホイッパーできちんとよく混ぜて作ってみたらいい感じの種ができた。
先日のケーキ作りで、粉の混ぜ方で反省点があり、再度作り直した経験が生きた。なめらかな種だ。
最近ではあまりみない出色の焼きの出来栄え。ケーキほど手間ではないものの舐めて作るとだめなのはホットケーキでも一緒なのだと認識。
小さめに作ったものを2段に。少しプロっぽい。
オーケーストアで買った大きめの出来上がり済みのホイップを乗っけて出来上がり。
大層美味かった。
妻は下の段のものを自分で飾り付けホイップ。
この辺の美的感覚は見習わねば😀
さて、まぁ、おせちは食べないの?ということもあると思う。
妻も私もおせちを食べて育ったので、あれもこれもと作っていたこともある。ただ、材料を買い集めるだけでも大変なのであるし、最近の物価高で目が入った部分で、おせち材料は需要の高まる年末には値段が高くなることを思えば、無理をして作ること自体、経済的観点からも労力的観点としてもナンセンスとは言えまいか。
さらに、おせちには民間伝承、信仰的な縁起がついていてそこが心情的にむむぅと思う面があると今回脱おせちをしてみて分かった。
私はうだつが上がらない中年であり、そもそもが人生の敗者であり、人生上の勝ちを願う縁起はいまさら必要ないかと思うと、おせちの多くの勝ち、出世願いの料理が少し頭に来る。
また私ら夫婦は子無し夫婦であり、それが大きなコンプレックスになっている、少なくとも私は。となると子孫繁栄を願う料理も、むむぅとなる。
例えば、ブリは出世魚で、イナダ→ワラサ→ブリとなっていくからして出世を願っておせちに出てくるが、出世?はぁ?という人生敗者たる私にとって、はぁである。わざわざ高い栗なんて買う必要なかろう。
分かりやすいところで数の子。無数の魚卵に塊である数の子。大好きであるし、実家などでは数の子ばかり食べるんじゃないと良く叱られもしたが、子孫繁栄を願ったものであることは自明でこれも大いにコンプレックスのあるところで、はぁ?となる。
栗きんとん、これも大好きで食べすぎるんじゃないと実家では釘ばかり刺されていたが、勝栗にかけて勝つことを願っての料理と思えば、はぁ?となる。
とか屈折気味のことを言っていたら、実は妻は私が大好きな栗きんとんの材料は高くなる前から買い置いておいたようで、サツマイモと栗をね。ちょっと寂しそう。
となれば、作ってくれるのは美味しくいただくこととする。縁起は関係なく食べ物として。
おせちは作らねばと教条主義的になるからきついのであって、食べたけりゃ作るけど脱おせちしてもいいってことで。