今日の一語り

しがない勤め人、大津 和行(かず)、のキーボードから紡ぎ出される日々語り

マグロ漁師の番組を見ながら釣り人として他人事とは思えぬ緊張感を感じる

定期的に、本マグロの本場、青森県は大間でのマグロ漁師の漁の様子がテレビで放映される。

マグロ自体100キロを超える巨体。それを一人とか数人で釣り上げる迫力と、なかなか釣れないので、希少な映像ということなるのだろうか。

そこまでまじめに見るわけではないので、放映されていて暇で気が向いたら見る程度だが、なかなか釣れない 悲運の漁師 山本さんのことはなんか覚えている気がした。

今日・・・たまたまテレビを見ていたらテレビ朝日系列で「マグロに賭けた男たち2020」がやっていたので、見てしまった。

悲運の漁師 山本さんは3年ほど大きなマグロを釣っていないよだった。

 

以前なら、釣れるかな、がんばれくらいで見ていたところだし、さほど興味もなかったかもしれないが・・・かなり久しぶりに見るこの番組・・・釘付けで引き込まれていた。

 

なぜか?

 

そう、私は今や釣りが大好きであるからだ。

釣りというのは好きになればなるほどつらいものである。釣れないときのつらさは身をもって分かる。

それが3年となればいかばかりか。

私は本業が釣りというわけではなくあくまで趣味が釣りだけれども、釣りに行って釣れないと「俺の休み時間を返せ!!」と地団駄踏みたくなるくらいくやしい思いになる。ならやめればいいではないか。

そう、コストパフォーマンスを考えればやめたほうがよい。でも、中年以降見つけた唯一の生き甲斐みたいなものだから、

釣れて欲しい・・・私と一緒にやることもあるが、おおむね見ていることの多い妻はいつもそう思ってくれているらしい。うだつの上がらない不満だらけの夫がせめても今の生き甲斐である釣りで釣って気晴しして欲しいという一念だろうか。

だから、釣れないと悔しがる私に、「ほら魚信(あたり)があったからいいじゃない」とか慰めてくれる。よき妻である。

そう、こう冬になってくると魚信(あたり)があるだけでも慰められるのだが、やはり釣りたい。あたりがあっても釣れなきゃしょうがないという見方もあろう。

私がよく釣る、アジなんかも、あたりがあって引き上げて、その途中でばれることがある。アジは口が弱いから口切れしちゃうんだよね。かなりくやしい。

昨年よく釣れたタチウオにしたって、魚信(あたり)はあるんだけどなかなか針がかりしなくて、これもくやしい。しかも、タチウオは大きいので、唖然としたのは、すぐそこまで引いてきていて、道糸(おおもとの糸)でブチンと切られるとかなるともう茫然自失であった・・・。また、引き上げ途中で、竿が折れたってことだってあった。そう、かかっても引き上げられない、このくやしさも身をもって分かる。

 

今日の番組では・・・悲運の漁師 山本さんが3年のブランクを経てようやっとあたりがあった、引きあげ始めた。そして・・・一発目は・・・最後の最後で糸が切れた。船に擦れてしまったんだね糸が。すごくくやしそうな山本さん。私はもう見ていられなかった。妻も同じ気持ちだったろう。最後の最後で切れる悔しさ。長年釣れない悔しさ。どちらもわがことのように分かるから。

その後、山本さんは大きなマグロを2匹釣り上げるのだが、一人で釣り上げるわけだから、もうハラハラしてしまう映像。そう釣り人だからこそハラハラする映像。私は昨年初めてタチウオとか大きなのを上げて分かったが大きいのは本当に大変だ。最後の最後まで大変なんだよね。最後の引き上げで糸が切れたり、ばれたり、竿が折れたりしたから。

 

ハラハラしながら見ていて、山本さんはマグロを2匹無事に仕留めた。100キロオーバーだから本当に大変そうだった。でも、それで良かったと心から思った次第。

 

釣り人として悲運の漁師 山本さんの緊張感がシンクロナイズ・共鳴できてしまって他人事に思えなかった次第。